医学部志望 大阪の予備校情報
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出産の時に産婦が使う寝床のことを「産褥」(さんじょく)という。関連して、
分娩(ぶんべん)の際に生じた傷に細菌が感染して起こる病気は「産褥熱」と呼
ばれている。この予防法が発見されたのは、19世紀半ばだった、というのだか
ら、医学の発達の割には産科医療は遅いなあ、という感想をもってしまう。
で、 医学部 受験 その予防法とは「手を洗う」というまったく初歩的な習慣
だった。これはイグナツ・ゼンメルヴァイズという医師による発見で、彼のおか
げで、当時、10~30%も発生していた産褥熱が、1%台前半にまで減った。
その後、パスツールらが細菌研究へと向かい、根本原因に至ることになる。
ハンガリーの首都ブダペスト。王宮の丘の南の麓にある 医学部 受験 「ゼン
メルヴァイズ医学歴史博物館」(写真)。産婦人科医であり、産褥熱の原因を発
見したイグナツ・ゼンメルヴァイズ博士の業績を記念した作りの建物になってい
る。
レギュラーコメンテーターの「ある麻酔科医」さんが、先日産科医についてコメ
ントされたのを読んで「そうだった、ブダペストには、世界的に著名な産科医が
いたんだ!」と、思い出し、早速見学して来た。偶然、7月1日は博士の誕生日
に当たる。
アプロード通り1-3番。博物館へは、 医学部 受験 トラム19番下車する。
博物館となっているこのバロック・スタイルの建物は、元々ゼンメルヴァイズ博
士の生家であり、かつて博士が開業していた場所。建物の威容から、博士が裕福
な家庭に育ったことがわかる。
さて、ゼンメルヴァイズ博士といっても、一般にはなじみがないけど、1818
年7月1日生まれ。父はジョセフ・ゼンメルバイズさんで、リッチな商人だった。
今博物館となっている大きなお屋敷以外に、二つの屋敷を保有していたそうだ。
家系は16世紀のオーストリアのキスマルトンという村にまでさかのぼり、ハン
ガリーでは、ヒエックと呼ばれるドイツ系の少数派グループに属した。
ゼンメルヴァイズ博士は中等教育でも極めて優秀な成績を修め、ペストの大学で
哲学を、オーストリアのウィーンで法律を、それぞれ2年間学んだ。父親のジョ
セフは、軍法法廷の判事になることを望んでいたようだが、ゼンメルヴァイズ博
士は、法律を学んだ後、医学部に登録してしまった。大学の産婦人科で契約助教
授などをしていたが、特定の教授から、しばしばアカディミック・ハラスメント
を受けて、不遇だったようだ。
彼の業績は、産褥熱の予防なのだけど、この予防法を発見するには、日常の医療
においていくつかのヒントがあった。たとえば、産科病棟によって、産褥熱によ
る死亡率が異なるのはなぜか? 調べてみると、トレーニング中の産婆さんが扱
った妊婦には、ほとんど産褥熱が発生していないけど、それはなぜか? そんな
風に次々と発想をもらい突き止めて行くと、最終的には、死亡した妊婦を病理解
剖した後、医師が、よく手を洗わずに、その手で別の妊婦の出産を扱い、血管感
染していくという結論に至った。
当時、病理解剖が非常に盛んで、手を洗わず患者に触れるという、今では考えら
れない不衛生なことが現実には行われていたのだ。
しかし、予防法を発見したものの、ゼンメルヴァイズ博士は、すぐに国内の学術
雑誌に発表しなかった。 医学部 受験 仲間内の医師だけに知らせて、最小限
の情報公開となった。後年、彼はさまざまな検証を経た結果を著作に表して、欧
州内の医学者らに読んでもらったが、しばらくは相手にもされなかった。科学的
に因果関係を説明できかねたからで、後にパスツールらの細菌研究による証明を
待たねばならなかった。そのため彼の業績が認められない期間、残念にも、多く
の産婦が死んでいくことになった。
ゼンメルヴァイズ博士が、産褥熱の原因に気づくきっかけとなったのは、ひょん
なことからだった。博士がベニスに数週間滞在しているときに、同僚医師が病理
解剖の際、自分の手を切ってしまい、死亡した。ゼンメルヴァイズ博士は、後日
その解剖報告書を見て、症状があまりにも産婦たちが死亡する症状に似ているこ
とに気づいた。「夜も昼も、私は、死んだ同僚が脳裏から離れなかった」と、後
年、博士は書いている。そして「死体からのもの(細菌)が、血管のシステムの
中に入ったのか」と共通の死因に気づいた。
博士の功績は、 医学部 受験 予防のための原因発見という単純なものだった
けど、救った人命は膨大な数にのぼる。「母親たちの救世主」と呼ばれるのは当
然だ。ただ、博士の生涯を読んだ限りでは、博士の人生の終焉は悲惨であったこ
とが心に痛む。
アルツハイマー病にかかり博士は施設に収容されたという。1865年、ナイフ
による小傷がきっかけで、傷口が膿(うみ)始め、最期は、産褥熱と同様に細菌
感染による敗血症のためなくなった。短すぎる47歳の生涯であった。
分娩(ぶんべん)の際に生じた傷に細菌が感染して起こる病気は「産褥熱」と呼
ばれている。この予防法が発見されたのは、19世紀半ばだった、というのだか
ら、医学の発達の割には産科医療は遅いなあ、という感想をもってしまう。
で、 医学部 受験 その予防法とは「手を洗う」というまったく初歩的な習慣
だった。これはイグナツ・ゼンメルヴァイズという医師による発見で、彼のおか
げで、当時、10~30%も発生していた産褥熱が、1%台前半にまで減った。
その後、パスツールらが細菌研究へと向かい、根本原因に至ることになる。
ハンガリーの首都ブダペスト。王宮の丘の南の麓にある 医学部 受験 「ゼン
メルヴァイズ医学歴史博物館」(写真)。産婦人科医であり、産褥熱の原因を発
見したイグナツ・ゼンメルヴァイズ博士の業績を記念した作りの建物になってい
る。
レギュラーコメンテーターの「ある麻酔科医」さんが、先日産科医についてコメ
ントされたのを読んで「そうだった、ブダペストには、世界的に著名な産科医が
いたんだ!」と、思い出し、早速見学して来た。偶然、7月1日は博士の誕生日
に当たる。
アプロード通り1-3番。博物館へは、 医学部 受験 トラム19番下車する。
博物館となっているこのバロック・スタイルの建物は、元々ゼンメルヴァイズ博
士の生家であり、かつて博士が開業していた場所。建物の威容から、博士が裕福
な家庭に育ったことがわかる。
さて、ゼンメルヴァイズ博士といっても、一般にはなじみがないけど、1818
年7月1日生まれ。父はジョセフ・ゼンメルバイズさんで、リッチな商人だった。
今博物館となっている大きなお屋敷以外に、二つの屋敷を保有していたそうだ。
家系は16世紀のオーストリアのキスマルトンという村にまでさかのぼり、ハン
ガリーでは、ヒエックと呼ばれるドイツ系の少数派グループに属した。
ゼンメルヴァイズ博士は中等教育でも極めて優秀な成績を修め、ペストの大学で
哲学を、オーストリアのウィーンで法律を、それぞれ2年間学んだ。父親のジョ
セフは、軍法法廷の判事になることを望んでいたようだが、ゼンメルヴァイズ博
士は、法律を学んだ後、医学部に登録してしまった。大学の産婦人科で契約助教
授などをしていたが、特定の教授から、しばしばアカディミック・ハラスメント
を受けて、不遇だったようだ。
彼の業績は、産褥熱の予防なのだけど、この予防法を発見するには、日常の医療
においていくつかのヒントがあった。たとえば、産科病棟によって、産褥熱によ
る死亡率が異なるのはなぜか? 調べてみると、トレーニング中の産婆さんが扱
った妊婦には、ほとんど産褥熱が発生していないけど、それはなぜか? そんな
風に次々と発想をもらい突き止めて行くと、最終的には、死亡した妊婦を病理解
剖した後、医師が、よく手を洗わずに、その手で別の妊婦の出産を扱い、血管感
染していくという結論に至った。
当時、病理解剖が非常に盛んで、手を洗わず患者に触れるという、今では考えら
れない不衛生なことが現実には行われていたのだ。
しかし、予防法を発見したものの、ゼンメルヴァイズ博士は、すぐに国内の学術
雑誌に発表しなかった。 医学部 受験 仲間内の医師だけに知らせて、最小限
の情報公開となった。後年、彼はさまざまな検証を経た結果を著作に表して、欧
州内の医学者らに読んでもらったが、しばらくは相手にもされなかった。科学的
に因果関係を説明できかねたからで、後にパスツールらの細菌研究による証明を
待たねばならなかった。そのため彼の業績が認められない期間、残念にも、多く
の産婦が死んでいくことになった。
ゼンメルヴァイズ博士が、産褥熱の原因に気づくきっかけとなったのは、ひょん
なことからだった。博士がベニスに数週間滞在しているときに、同僚医師が病理
解剖の際、自分の手を切ってしまい、死亡した。ゼンメルヴァイズ博士は、後日
その解剖報告書を見て、症状があまりにも産婦たちが死亡する症状に似ているこ
とに気づいた。「夜も昼も、私は、死んだ同僚が脳裏から離れなかった」と、後
年、博士は書いている。そして「死体からのもの(細菌)が、血管のシステムの
中に入ったのか」と共通の死因に気づいた。
博士の功績は、 医学部 受験 予防のための原因発見という単純なものだった
けど、救った人命は膨大な数にのぼる。「母親たちの救世主」と呼ばれるのは当
然だ。ただ、博士の生涯を読んだ限りでは、博士の人生の終焉は悲惨であったこ
とが心に痛む。
アルツハイマー病にかかり博士は施設に収容されたという。1865年、ナイフ
による小傷がきっかけで、傷口が膿(うみ)始め、最期は、産褥熱と同様に細菌
感染による敗血症のためなくなった。短すぎる47歳の生涯であった。
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